●春なのに
というえらく古い歌が、脳内を駆け巡っておりました(笑)。
懐メロパワーって、ホントに恐ろしい(笑)。・・・でも、なんとな~くぼんやりと思い出しただけなので、誰が歌っていたのか、どんなタイトルだったのかさえ、思い出せません。
「歌ってたの、誰だっけ? キャンディーズ?」
「・・・いや、それは春一番だろう(爆)」
「そっか。ピンクレディーじゃないしなあ・・・」
「もうちょっとだけ、後の時代のアイドルだったような」
「ふに? 聖子ちゃんや明菜じゃないよね~」
「ちがうちがう。もうちょっと後の、えっと・・・」
こんないい加減なわたしたちですが、ちゃんと「柏原芳恵」が出てきた小鳥さんってスゴイ(笑)。で、後になってネットで検索して、この「春なのに」が、中島みゆきの作詞・作曲であることが判明しました(苦笑)。・・・なるほど、それじゃあ、歌った人を忘れてしまっても(ゴメンナサイ!)、歌詞とメロディを覚えていたのは当然ですね。
というわけで、衝撃の映像を(笑)>>
「春なのに」 柏原芳恵「春一番」 キャンディーズ※あたりまえですが、ビデオクリップなので音声が出ます。注意してくださいね。それから、月曜日の朝からレトロ昭和モードに染まって頭に羽が生え、お仕事に支障が出ても、わたしは責任を取れません。。。
●ぽよよん岩城さん
更新してます♪
頼もしい年下の彼氏に守られて、まるまる、ほわほわ~っと、初めての恋★に浮かれていた岩城さんですが、そろそろ現実に直面するときがやってきたようです(笑)。・・・いや、あくまで「ゆすらうめ」基準、超ベタ甘小説における「リアリズム」ですけどね(苦笑)。
サイトのあっちこっち、それからこのブログも、桜でいっぱいに埋め尽くされていますよね(笑)。なにしろ好きなので、おまけに今のシーズンしか使えないもので、桜の画像素材オンパレード。もう、「これでもか!」って感じだと思います。

ブログのトップ画像も、替えてみました。
そしてこちらは、おまけ?の素材(笑)。実は、昨年ことりさんにもらった桜の写真を加工しました。使用前、使用後の画像です(笑)。


けぶるような、スモーキー・ピンクの背景は、ひとえにわたしの趣味ですね(苦笑)。それにしても、曇天の撮影だと、どうしてもお花のインパクトが弱いですよねえ・・・残念!
●悪いのは本人だよ
と、わたしは常に思っています。。。
父さんいなくても学校がんばりますこれ読んで、ぐっとこみ上げるものがありました。
岡山駅の突き落とし事件も、それから、土浦で起きた連続殺傷事件も。あんまり無念で、虚無的で、残酷で・・・どうしようもない思いに駆られます。第三者のわたしがニュースを読んでいるだけで、これだけいろいろな感情に襲われるのだから、当事者やその家族の思いは、どれほどだろうって。
この手の事件のときに、判で押したように言われることがふたつありますね。
「おとなしい、まじめな子だったのに」
「ゲームやインターネットの影響では?」
どっちも違うと思います。
もちろん、事件にかかわりのない外野が、報道されている内容を見てそう思うだけなので、実際のところはわかりません。人の心の闇を覗くことなんて、絶対にできないわけですし。でも、ただの私見だけど、上記コメントは安易にすぎると思うのです。。。
「おとなしい、まじめな子だったのに」>>
近所の人、学校の先生、ときには家族ですら、そう言うことがありますよね。(時によって、「成績がよかった」「挨拶のできる子だった」「兄弟の面倒をよく見ていた」・・・などもありますが、本質的に、すべて同系列だと思ってます。)
あたりまえですが、本当におとなしくてまじめな人は、ある日突然ナイフを持って人を切りつけたり、見も知らぬ他人を線路に突き落としたりはしません。まず、そこがスタート地点だと思います。いきなり、なんの前触れもなく、ある種の精神疾患に見舞われた・・・というような事実でもない限り、「おとなしくてまじめな人」は、恨んでもいない人を傷つけたりはしないと思います。
っていうか、するわけないよ。おとなしくてまじめな人って、要するにふつうの、健全な一般市民、という意味に通じるからです。たとえば、わたしの周囲にいる人の過半数は、たいてい「おとなしくてまじめ」って形容できるもの。
だから、今回の事件のような行動をする人は、「おとなしくてまじめな子に見えた」だけだろうって思います。
揚げ足とりをしてるつもりはないです。でも、「おとなしくてまじめそうに見える」って、言い換えれば、周囲の人たちがその人の性格を、ほんとうには把握してなかった、うわべだけのつきあいをしてた、ってことかもしれないなあ、と思います。被疑者がどんな人間か、ほんとうに理解する人がいたら、そういう言い方をしないんじゃないか・・・と、思ってしまうんですね。
「一緒に暮らす家族なら、そのくらいわかってるだろう」って、一概には言えないのが恐ろしいです。
これって、「そのくらい」じゃないんですよね。家族のことを理解するって、大変な努力がいることもあると思います。若い男性って特に、自分の内面をさらけ出すのが苦手ですから、家族がどれほど努力しても、本当の人格を知り得なかった・・・のかもしれません。
でも、家族がなんらかの機能不全というか・・・その人のことを掘り下げて知ろうとしなかったり、関心がなかったり。忙しすぎたり。あるいはそもそも、わたしがイメージするようなふつうの(愛情でつながった)家庭が、そこになかったのかもしれない。。。
「おとなしくてまじめな子」という言葉は、だから空虚だと思います。他にその人のことを描写しようがないから、そう無難なことを言ってるだけ、というか。無責任で、言い逃れに近いかもしれませんね。
「ゲームやインターネットの影響では?」>>
で、被疑者が「おとなしくてまじめな子」だと主張するなら(ホントはそう見えただけ、なのに)、「じゃあ、なんでそういう子が凶行に走ったのか」を、説明しなくちゃいけなくなりますよね。ふつうの子が、ふつうではない子になってしまった、その理由を探したがる。(ここでは便宜上、「子」って言ってますが、どちらの事件も責任能力のある若い男の犯罪ですよね。)
残虐なゲームにはまっていたとか、ネットで変なものを見ていたとか。そのせいで、思考回路がおかしくなったんじゃないか、って。・・・それが、いちばん安易なスケープゴートなんだろうね。
ひと昔前は、「悪役」はテレビやマンガでした。ホラー映画が大好きだったとか、残酷な殺人シーンの多い小説ばかり読んでいたとか。えろビデオばっかり、自室に何百本もあったとか。・・・たしかに、あんまりステキな趣味ではないけど、でも、こういうものはたいてい、商業ベースで製造されてるものですよね?
お金儲けのための商品であり、ふつうに市販されているものであり、日本中、いや世界中にそれを愛好する人たちが、何万、何百万人といるわけです。その人たちが揃いもそろって、唐突に暴力行為に走り、いきなり知らない人たちを殺そうとする(している)とでも・・・?
わたしには理解できない趣味だけど、でもビデオやマンガが、「おとなしくてまじめな子」を殺人鬼にするわけじゃない。そんなわけない。それが本当なら、世の中のすべての暴力的な本やマンガやゲームを排除すれば、世の中からこの手の殺人がなくなるわけですが・・・本気でそう信じてる人がいるとは、とても思えません。
そうじゃなくて、心のどこかに危うい何か、フィクションの中の暴力や殺戮に過度に反応してしまう「何か」を持っている人が、そういう嗜好のものを買い揃えただけだと思います。
だって>>
想像してみてください。
わたしがある日突然思い立って、ロンドンのクラファム・コモン(ゲイのクルージング・スポットとして有名です)に出向き、知らない男性をレイプしたとします。(あくまで論理的仮説なので、「どうやって?」って聞かないでね。。。)
もちろん、すぐに警察がわたしを逮捕し、わたしのフラットを家宅捜査します。そうしたら、大量の(『春抱き』グッズを含む)BL本が出てくる・・・わけですが。その中には、けっこう過激なレイプものなんかも含まれるし、もちろんわたしのPCのコンテンツも、「それなり」にヤバいです。違法画像こそないと思うけど、書きかけの小説も、訪れたことのあるサイト(履歴)も、白日に晒せるようなものではないです・・・。
そうなったとき、「こんな刺激の強い、犯罪性の高い、反社会的なBLばっかり読んでるから、頭がおかしくなって犯罪に及んだんだ!」って・・・検察が言ったとしたら? (ちなみに、わたしの同僚はたぶん、「いやあ、おとなしくてまじめな人だったっすけどねえ。信じられませんよ」って言うでしょうね。)
過激なBLのせいで、罪を犯した?
わたし自身は、ふつうの社会人だったのに?
違いますよね。問題はあくまで、本人自身なんです。世の中の99.9%のBL好きは、好みが過激だろうとなんだろうと、ほもえろを書きまくろうと買い漁ろうと、ごくごくまっとうな社会生活を送っています。他人に危害を加えるどころか、家族や友人にやさしく、一生懸命お仕事をして、それこそ「おとなしく、まじめな」人生を生きてるはずです。
その中で、わたしだけが突出してとんでもないことをしてしまったとしたら、それは、わたし自身の心の闇のなせる業です。いけないのはわたしであって、BLじゃない。
もっというと、原因は「想像力の欠如」だと思います。
岡山の事件でも、土浦の事件でも、共通しているような気がするのは、被疑者が他者(家族でも知らない人でも)を同じ人間として、認識していないことです。
人を殺せば刑務所に行ける・・・と思った、それは正しい「知識」かもしれませんが。そこにはその「人」も血の通った人間で、家族や友だちがいて、人生の喜びや悩みを抱えた、生身の人間である=自分と同じ人間だ、という認識がごっそり抜け落ちている。誰でもよかった、という発言が、それを裏づけてますよね。
いや、知らない人だけじゃなくて、家族への感情も抜け落ちている。自分がいなくなったら、犯罪を犯したら、刑務所に入ったら・・・そうしたら、親兄弟がどう思うか。悲しんだり怒ったり、一生償いきれない罪悪感を抱え、苦しみ続けるだろうということも、想像できない。(あえて家族を苦しめるためにやったなら、それはまた別物ですが。)
自分と同じように、世間の人たちもいろいろ悩みながらがんばって生きてる、とか。自分がこれをやったら、家族がどう思うだろう、とか。そういうところに思い至らないのは、「想像力の欠如」としかいいようがない。
他人の目線でものを見る。
次に何が起こりうるか予測する。
それができない人間・・・というと、まず思い浮かぶのは子供です。子供がどうやって、そういう能力を身につけていくかというと、経験しかないですよね。濡れてる廊下で走って転んだり、熱いストーブにびっくりしたり。おともだちのおもちゃを欲しくて奪い取ったら、火がついたように泣かれたり。兄弟とケンカして、勝ったり負けたり。
そういう経験を通じて、子供は、自分とはちがう価値観を持った他者がいること、思い通りにはならないこと、危険を察知することを、覚えるのだと思います。今回の事件の被疑者は、そういう意味で、他者の思惑を想像することのできない・・・つまり、非常に自己中心的な思考しかできない人、なんじゃないかなあ。。。
すみません。長くなってしまったので、ここでお終いにしますね。