●昨日はそういえば
啓蟄(けいちつ)・・・だったんですね。
今日は何しろ、都心でも雪が降るほどのピリピリした寒さだったので、昨日やっと出てきた虫たちは、さぞや凍えていただろうなあ。
・・・なんてね、思ってました。
さて、「啓蟄」はもちろん、俳句の季語にもなるわけです。
季語ってのは不思議なもので、俳句をやっているといつの間にか、お気に入りの季語と、自分ではさっぱり使わない季語・・・ってのが見えてきます(笑)。
何千、いや何万とあるであろう季語ですので、どれをどう使うかは作者の勝手。
言葉の響きや文字面から受ける印象、イメージされる事象などなど、言葉を好きになる/ならない理由なんて主観的なものですから、自分では使わない/使いたくない季語があるのは、ごく自然なことだろうと思います。
たとえばわたしの場合、非常にランダムですが、
「冴える」(冬)、
「山笑う」(春)、
「風薫る」(初夏)、
「万緑」(初夏)、
「竹の春」(秋)
・・・なんて季語が大好き(笑)。
好きなので、毎年そのシーズンになると、飽きもせずに使うことが多いんですよね。
反対に、苦手・・・というか、今まで一度も使った(使おうと思った)ことのない季語もたくさん。
その筆頭が、この「啓蟄」なんですよね(笑)。
まったく個人的な、勝手な思い込みかもしれませんが、そもそもその漢字二文字の字面が、そして音が好きになれない・・・(苦笑)。
凍てついた冬の大地が、春が近づくにつれて徐々に暖まって、冬眠をしていた虫たちがもぞもぞ出てくる・・・という意味なんですが、そのイメージ映像(?)にもイマイチ、ロマンを感じないわけです(苦笑)。
そこで土から出てくるのが、虫じゃなくて福寿草だったりすると、イイ感じだと思えるんだけどなあ。
・・・なんてわけで、それまで苦手だった「啓蟄」ですが、最近になって認識を改めました。
そのきっかけになったのが、この俳句です>>
啓蟄の奈落より出づ役者かな
(松崎鉄之介)
この俳人のことを、わたしは何も知りません。
知りませんが、この句はいいなあと素直に思いました。
奈落からせり上がって来る役者・・・というと、これは歌舞伎のお芝居ということになります。
(奈落というのはこの場合、歌舞伎用語で、舞台の中央部分や花道に設けられた穴を指します。穴というか、床板の一部が可動式になった装置で、そこに乗った役者が床下から舞台に登場したり、舞台から姿を消したりするわけです。)
春の虫が地上に顔を出すイメージと、奈落から徐々にせり上がって登場する役者のドラマティックなイメージをかけたわけで、実にうまいなあ、と唸らされます。
しかも、「奈落」ですからね。
一般的には、これは地獄という意味ですから、ここで虫にたとえられている「役者」というのは、正義の味方でも楚々とした姫君でもなくて、たぶん悪役だろうなあ、と想像を逞しくするわけです(笑)。
そうなると、これはもう仁木弾正しかいない!(笑)
「にっきだんじょう」と読むのですが、これはひと言でいえば、歌舞伎狂言きっての悪役も悪役、大悪人の代名詞みたいな役なんです(笑)。
江戸時代に実際にあった仙台伊達家のお家騒動を下敷きにしたお芝居、「伽羅先代萩(=めいぼくせんだいはぎ)」の敵役で、残虐非道、おまけに妖術まで使う仁木弾正。
※もちろん、ホントに奈落から登場する場面アリ。
今の歌舞伎界だと、我らが片岡仁左衛門や松本幸四郎などが当たり役にしています。
で、上の俳句を、もう一度ご覧くださいな(笑)。
おどろおどろしい暗闇の中、じわじわとせり上がって来る悪の権化、仁木弾正―――不気味なシーンではありますが、役者にとっては見せどころであり、観客がひときわ沸く場面でもある。
そのイメージに「啓蟄」を重ね合わせた俳人の発想に、何ともいえない妙味を感じますね。
・・・え?
想像を膨らませすぎ?(爆)
そうね、そうかもしれません(笑)。
でもね、俳句の鑑賞って、結局は主観的でしかありえないと思うんですよ。
たった17文字に凝縮された「詩」ですもの、そこに使われている言葉ひとつひとつに注目し、連想されるイメージをつなぎ合わせて、自分なりの解釈=価値を見い出す。
そうやって引き出した解釈は、もしかしたら作者が意図したものとは違うかもしれないけど、それでいいんだと思います(笑)。
●最近
わたしの周囲で、もっとも話題になった?のがコレ。
ひとくちちょうだいが大キライ閲覧して、ややびっくり・・・(笑)。
「ひと口ちょうだい」がキライな人ってこんなに大勢いるのか、という驚きですね。
(冷静に考えれば、こういうトピックに「キライ」派のほうが多く集まるのはあたりまえで、「OK」派がマイノリティに見える=社会全体を反映していることにはならない、って気づきますけどね。)
さて、これが話題になったのは、他でもない。
レスの数々を読めばわかりますが、「ひと口ちょうだい」を嫌がる理由、嫌だと思わない理由には、一筋縄ではいかない細かな「条件設定」があるからです(笑)。
たとえばわたしは、「ひと口ちょうだい」&「ひと口あげる」をごく自然に、家族や仲のいい友人と行っていますが、そこには言わずもがなのルールがありますよね。
この掲示板のレスに散見されるような、
「許可を得る前に、黙ってぬっと手を伸ばす」
「あまり親しくない同僚などの直箸」
「ひと口と言いつつざっくり、でっかいひと切れを容赦なく持っていかれる」
なんて、当然ながら嫌だもん(笑)。
つまりケース・バイ・ケースなわけで、もっというと、その時の自分の機嫌(とお腹の空き具合)次第でもあったりするので、一概にいい悪いの判断はできないなあ、と思うわけです。
「ひと口交換」が普段なら気にならない人だって、たとえば大好きなお店の大好物のケーキを注文し、久しぶりに味わうのを楽しみにしていたのに、一緒にいる3人とそれぞれ「ひと口交換」した結果、自分の手元に残ったケーキはほんのひと口、ふた口分だけだった・・・なんて時は、哀しくなるんじゃないかなあ。
交換したってことは、他の3人のケーキもちょっとずつお味見できたわけだけど(それはそれで美味しかったとして)、
「大好きなあのケーキをたっぷり食べた!」
という満足感は絶対に得られませんよね(苦笑)。
「他者が口をつけたカトラリー」が気になるというのも(配偶者や子供でも嫌だというのは極端な例のように思うけど)、神経質といえばそうかもしれないけど、こういうのって個人差が大きいですからね~。
よくある話ですが、バスタオルやお箸からシャンプーまで、自分専用のものが決まっていて、たとえ家族でも他の人のものはいっさい使わないという生活をしている人なら、そのくらい神経質でも当然かもしれません。
とまあ、そんなわけで。
ひと口に「ひと口頂戴」と言っても、実はいろいろな要素が複雑に絡み合っているんじゃないかと思います(笑)。
●花粉症を
真面目に考えると、こうなります。
スギ花粉症 「国民病」の対策は根本から国民の多くが苦しんでいて、その原因ははっきりしている。
経済的、社会的損失も馬鹿にならない。
つまり、「お気の毒ね」で済むレベルをはるかに超えているのだから、政府は真面目に対策に取り組むべきだということ。
(スギの木そのものに非があるわけじゃないけど、むやみに森林を伐採するのは考えものだけど、これだけ健康被害が、それも植林による人為的な被害が出ている現状では、やむを得ないと思っています。)
右往左往している今の政府に何を期待しても・・・とは思うものの、絶望してばかりもいられません。
なにしろ、花粉症は防げるのだから。
この社説には、まったく同感です。