●19年
なのですね。
そうか。
「そんなに」と「もう」と両方あるなあ、と思いました。
あの日のことは比較的はっきりと記憶しているので、そんなに経ったのか、という気持ちのほうが強いかも。
震災の教訓、どう次世代へ継承 阪神大震災から19年たとえば今年の新成人は、もはや自分自身のリアルな記憶としては、震災を覚えていないってことですね。
今の大学生以下、若い世代はほとんど体験して/覚えていないわけだ。
(三歳だったら、いくらか記憶にあるかもしれないけど。)
2011年の東日本大震災ですら、風化なんて言葉が聞かれるくらいです。
阪神・淡路の場合は、それよりはるかに記憶の継承が急務でしょう。
忘れたいという人もいるかもしれないけど、残しておくべき教訓も多々あるはず。
地震は単なる過去の悲劇ではなく、現在と未来の世代を守る手がかりになるから。
個々にできることは微々たるものだけど、ゼロではないと信じたい。
そうでなければ悲しすぎる。
そう思いました。
●先日の
浅草ぶらり散歩。
・・・の写真を載せてから、ずいぶん日が経ってしまいました。

正月二日に浅草寺に初詣に行こうとしたけど、あまりの混雑ぶりに断念。
代わりに?その界隈を散歩したら、いろんな発見があった。
という話です。
今さらですが、そのつづきを。

人混みのひどい雷門通りを避けて、少し北へ。
ちょっと歩いたところに花川戸公園がありました。

Aというピンのあるところね。
浅草寺の東側すぐです。
ここがなんと、かの有名な怪談「浅茅ヶ原(あさぢがはら)の鬼婆」の舞台になった場所。
まったく予備知識なく、偶然にたどり着いたので驚きました。

あたりにな~んにもない、浅茅ヶ原という名の荒れ地。
ぽつんと佇む粗末な一軒家。
そこに暮らすのは老女と若い娘。
たまに通りかかる旅人が、一夜の宿を求めて戸を叩く。
「貧しい我々にはろくなおもてなしも出来ませぬが・・・」
と言いつつ、快く旅人を招き入れる老女。
その晩―――。
・・・と、この後の詳しいお話はこちらで>>
Wikipedia 浅茅ヶ原の鬼婆台東区ホームページ 姥ヶ池碑なんというか、あれですね。
今この公園のある場所を見渡して、ここがかつて人も棲まない寂びれた荒野だったなんて。
とうてい信じられなくて、くらくらしました。
今では商店もマンションも建ち並ぶ、ごく普通の市街地ですからねえ。
この手のお話には豊富なバリエーションがあり、各地に類似の話が伝わっています。
ルーツは違うけど、歌舞伎の「黒塚」の素ネタも似たお話で、そこが面白い。
※こちらは「安達ヶ原の鬼婆」です。奥州のお話。

で、姥ヶ池ね。
前述の鬼婆が、お話の最後に身を投げた池・・・は、今はありません。
かつては非常に大きな池だったみたいですが、明治の頃に埋め立てられたとか。
今はその代わりに、上の写真のとおり小さな人工池が造られています。
(中央の石碑ですが、たしかお稲荷さんだったと思う。)

もうひとつ。
これが助六歌碑です。
察しのよい方は、「花川戸」という地名でピンと来たと思います。
花川戸といえば助六!
そう、あの歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」の助六。
彼の有名な名乗りは
「・・・大江戸八百八町に隠れのねえ、
杏葉牡丹の紋付も、桜に匂う仲ノ町、
花川戸の助六とも、また揚巻の助六ともいう若え者・・・」
なんですよね。
花川戸ってのは苗字ではなく、あくまで地名だけど、まあ通称みたいなものかしら。

写真にある通りですが、この歌碑を揮毫(きごう)したのは九世市川團十郎。
明治時代に活躍した「超」のつく名優です。
「助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり」
というのが彼の歌。
名歌かと言われると・・・悩ましいけど・・・大らかで威勢のいい縁起物、という感じがしますね。
九代目ということは、先だって亡くなった團十郎(十二世)の曽祖父。
・・・ってことになりますが、十世も十一世も実は養子なんですよね。
(十一世は十二世の実父。十二世と今の海老蔵も、もちろん実の父子です。)
だから九代目と、(わたしたちの知ってる)團十郎ー海老蔵親子とは血は繋がっていない。
そのはずなんですが、不思議なものです。
九代目のウィキなどを見ていただくとわかりますが、どういうわけか似て見える。
おもざしなのか、雰囲気なのか。
それとも単に気のせい?
(幸四郎家から養子に入った)十一代目とも似通っている気がして・・・面白いものです。
梨園は世襲の世界だけど、それよりも芸を大事にする。
脈々と受け継がれていくものがあるんだなあ、と実感します。
●花川戸公園を
後にして、もうちょっとだけ北へ。


隅田公園をちょっとふらふらして、浅草七丁目へ。
これもまったく偶然に、公園の地図を眺めていたら、とあるものに気づきました。
「池波正太郎 生誕地」
に、記念碑があるらしい。
なにしろ池波さんは、小鳥さんの最も敬愛する作家です。
その所縁の場所がすぐそばにあるとなれば、そりゃあ見てみたいですよね。
「で、それはどこ・・・?」
というわけで。

これが、池波正太郎の顕彰碑です。
台東区浅草聖天町、というのが住所。
さすが人気作家というべきか、周囲にはけっこう人がいました。
(といっても、浅草寺の混雑に比べたら・・・いや、比べられないか。)

思わぬ発見に、小鳥さんもご機嫌でした。
珍しく前をむいて写真撮影(笑)。

で、この生誕地碑。
待乳山聖天(まっちやましょうでん)の敷地の隣り、というかほとんど敷地内にあります。
「あれ、どこかで聞いたことが・・・?」

そんなわけで、やや副産物的に訪れたのが、待乳山聖天。
本龍院というのが正式名称で、浅草寺の子院のひとつ。
ご本尊は歓喜天(聖天)という・・・これは密教の仏様か。

浅草の七福神のひとつ。
ひと目見てわかるのですが、地元の参詣客がほとんど。
全国区(というか全世界?)に知られた浅草寺の目と鼻の先なのに、ここはものすごく・・・なんだろう。
地域に根づいた民間伝承。
非常に濃い、ローカルな信仰。
地元の人たちに長年、愛され敬われてきたご本尊なんだと悟りました。
同じ浅草でも、観光地ではない浅草。
同じ賑わいでも、観光客ばかりではない賑わい。
まるで別世界でしたよ。

うまく言えないけど、とても素敵だった。
寺社仏閣に素敵ってのは違うと思うけど、生き生きした民間信仰。
住民の生活に密着したお寺の良さというものを実感しました。

ちなみに、境内にはあっちこっちに大根のモチーフ。
本物の大根も売られていました。
夫婦和合、ひいては子孫繁栄のシンボルなのだそうです。

巾着のモチーフもあっちこっちに。
これはわかりやすい、財宝=商売繁盛の願いをこめたものですね。
特別なお守りを頂きましたが、これも巾着型で、大根の刺繍がしてありました。
・・・かわいい(笑)。

オマケは、これ。
この古~い塀、「築地(ついじ)塀」といいます。
これを見て、
「歌舞伎のあれだ! 三人吉三の!」
と気づいた人は、けっこうな歌舞伎通・・・かもしれません。
「三人吉三廓初買(さんにんきちざくるわのはつがい)」というお芝居の、有名なシーン。

大川(=隅田川)端で、吉三郎と名乗る三人の盗賊がはじめて出会う場面。
お嬢吉三(きちざ)、お坊吉三と和尚吉三。
「こいつぁ春から 縁起がいいわえ」
という、例のアレです。
この場面に欠かせないのが、背景にある築地塀なんですよね。
「そうかあ・・・!」
実際に目の前に、隅田川がある。
で、そのすぐ脇の待乳山聖天には、本物の築地塀がある。
歌舞伎が単なるエンターテイメントではなくて、江戸の風俗を今に伝える生きた遺産なんだと。
なんかね、今さらながらそれを実感しました。
三人吉三の世界と現在は繋がってるんだなあ、って。
あたりまえのことかもしれないけど、ね(苦笑)。
●それでは
えらく長くなりました(汗)。
またね。。。