●調子に乗って
昨日の記事の補足です。
以下、
歴史オタク&鎌倉時代マニア(自称)のウンチク。
興味のない方、ごめんなさい。
拍手やコメントありがとうございました。
承久の乱あれ、「承久の変」って学校で習ったけど?
・・・というご質問をいただきました。
いい質問だなあ(笑)。
鎌倉時代からしばらくは、「
承久の乱」と呼ばれることが多かったらしいです。
逆乱とか、大乱とか、兵乱とかもあった。
つまり
歴史用語としては、特に統一されていなかった。
それがだんだん「変(事変)」と呼ばれるようになったのは、江戸時代から。
理由は、儒学です。
朱子学とか水戸学とか、そういうのの発展がきっかけでした。
くわしく説明すると大変なので、ごく大ざっぱに言ってしまうと、尊王思想なのです。
「乱(反乱)というのは、格下の身分の者が目上の人間に逆らうという意味だ。日本でもっとも尊い天皇(上皇含む)が、臣下である武士に対して “反乱する” という表現は根本的におかしい」
ってことです。
(尊王思想的にみると、上皇にさからった
北条義時は “逆賊” ですから。)
別の言葉でいうと、皇国史観。
天皇は常に正しく一番えらくて、その意に逆らう人間はすべて逆賊―――という考えかた。
明治維新以降、天皇の権威と権力が強化されていく中で、その思想はますます広がった。
ゆえに、「承久の変」という呼び方も一般化したわけです。
だけど戦後は、ほら。
ガラリと価値観が変わりました。
天皇を絶対視する偏ったものの見方が修正され、
歴史をもうちょっと客観視するようになった。
で、もとの「
承久の乱」に戻った。
・・・ってことらしいです。
もっとも、今でも「承久の変」という用語をつかう学者もいるので、完全ではないのかな。
今は「
変 乱 」が主流だ、ということでいいと思いますが。
え?
じゃあ 「本能寺の変」 はどうなのって?(笑)
これは別物じゃないかなあ。
たまたま事件の起きた場所の名前をとったから、そういう呼び方になったんじゃない?(笑)
シンプルに、本能寺で起きた変事という意味。
もし首謀者の名前をとっていれば、明智光秀の乱、になったかもね。
三上皇の島流しこれも有名な話ですよね。
承久の乱の戦後処理。
首謀者の後鳥羽上皇は、隠岐の島へ。
後鳥羽上皇の息子のひとり、順徳上皇は佐渡島へ。
もうひとりの息子、土御門(つちみかど)上皇に関しては、若干の注記が必要かも。
※土御門帝のほうが兄で、順徳帝はその異母弟です(即位したのもお兄ちゃんが先)。
この上皇はどうも、そもそも
承久の乱にかかわりがないみたいなんですよね。
才気煥発で気性の激しい後鳥羽上皇は、よくにた性格の順徳上皇を溺愛してた。
一方で、おっとり穏やかな土御門上皇のことは、あまり好きではなかったらしい(汗)。
そりが合わなかったんでしょうね。
そのせいか、彼は討幕の陰謀に加わっていなかった(仲間はずれ?)模様。
それを幕府も知っていたので、お咎めなし、のはずだったのです。
なのにこの上皇は、
「お父上も弟も島流しになったというのに、自分だけ都にとどまるなんて申し訳ない・・・」
と言いだして、自主的に!土佐の国に流されていってしまった(汗)。
奇特な・・・としか、言いようがない。
みずから配流を希望した人なんか、前代未聞じゃない???
やがて阿波の国に移されるのですが、それも実は幕府の意向。
「せめてもうちょっと京に近いところに」
とお願いして、引っ越してもらったとか。
このあたりの土御門上皇と幕府の思惑は、想像するとなかなか興味深いですね。
「身内である以上、自分だけが無実だなんて」 (連帯責任)
なのか、
「戦乱だの権謀術数だのはもうたくさん。田舎でのんびりしたい」 (現実逃避)
だったのか。
あるいは、そこに別の深謀遠慮があるのか。
(ひとり京で以前と変わらない暮らしを続けたら、まるで家族を売って敵に媚びたみたいに見えかねないものね。)
どうなんでしょうね?
ちなみに>>
めったに話題に上らないけど、もうひとつ。
“三上皇” ってことは、全員が「元・天皇」だということです。
(上皇=太「上」天「皇」の略ね。だじょうてんのう、と読みます。譲位後の天皇の尊号。)
「待てよ。じゃあ
承久の乱の時点で、実際に天皇の座にいたのは誰?」
って、考えたことはありませんか(笑)。
もちろん、現役の天皇はいましたとも。
順徳上皇の息子で、当時わずか4歳の幼帝が。
ま、院政を敷いていたのは後鳥羽上皇ですから、完全なお飾りですけどね。
承久の乱後、在位たったの2ヶ月で、幕府によって廃位されました。
幼い上に、即位式や大嘗祭すら経ていなかったので、まともな諡号も長いこともらえなかった。
※諡号(しごう)=おくりな、帝王など貴人の死語に贈られる名前。
(後鳥羽だとか順徳だとかいうのは、すべて諡号です。生きてるうちにそう呼ばれたわけじゃない。)
九条廃帝とか、そんなふうに呼ばれていました。
廃帝(はいてい、はいたい)ってのは、正直ひどい言葉だよね。
それではあんまりだというので、明治時代になってようやく諡号が贈られました。
仲恭(ちゅうきょう)天皇。
今はそう呼ばれています。
日本史上、もっとも在位期間の短い天皇(78日)。
彼自身はこれっぽちも悪いこと、してないのにね。
退位後、ひっそりと17歳で崩御しています。
おまけ>>
4歳で即位などと聞くと、ひょっとして歴代、最年少の天皇かも?
・・・と思うかもしれませんが、上には上(下には下?)がいます。
後白河法皇の孫の六条天皇。
生後なんと7ヶ月(ただし数え年で2歳)で、天皇の座についています。
仲恭天皇から見ると、6代前の天皇にあたるのかな。
在位3年もたたずに退位し、わずか11歳(満年齢)で亡くなっています。
2代後の安徳天皇も数え年3歳で即位してるけど、六条天皇のほうがもっと幼い。
なんというか、やりきれないですよね。
さらに>>
よーく考えてみてください。
討幕を企てた上皇たちを島流し。
(いっそ死刑にしなかったのは、さすがにタブーが過ぎるというか、惧れ多かったのでは。)
その上皇たちの擁立した天皇を廃位にして、別の天皇を即位させる。
―――というのが、
鎌倉幕府のやったことです。
(時の権力者であった
北条義時の判断だと言えるでしょう。)
つまり、アレだ。
"臣下" であるはずの武士たちが "主君" であるはずの上皇たちを "罰した"。
それって実質、君臣の立場が入れ替わったってことです。
どう取り繕っても、本質的にはそういうこと。
「崇徳(すとく)上皇の呪いだ!」
と、当時の人たちは思ったそうです。
ええ、あの
崇徳上皇です。
日本の怨霊の代名詞、といっても過言ではないお人。
保元の乱に敗れて讃岐に流され、恨みをのんで死んでいった
崇徳上皇。
(彼も島流しですが、この時は処分した側も天皇家でした。)
怒り狂って舌を噛み切り、
「日本国の大魔縁となり、皇(おう)を取って民とし民を皇となさん」
(日本一の大魔王となって天皇をその地位から引き摺り下ろし、一般臣民を主君にしてみせよう)
と写経本に血書して、天皇家を呪詛しました。
夜叉のごとく爪や髪を伸ばし続け、生きながら天狗になった―――という伝説は有名です。
その彼の死が、1164年のこと。
怨霊だの呪いだのを、誰もが信じていた時代ですからね。
天皇も貴族たちも、震えあがったのは言うまでもありません。
そのわずか半世紀後に、承久の乱。
「ああ、
崇徳上皇の呪いがついに実現したのだ」
と人々が思ったというのは、ホントだろうなあ。
北条政子承久の乱の影の功労者は、
北条政子かもしれません。
源頼朝の妻。
当時すでに未亡人であり、出家していたので 「尼御台」とか「尼将軍」とか呼ばれていました。
3代将軍の実朝(政子の次男)が暗殺され、源氏の正統は途絶えてしまった。
そのとき将軍の座にあったのは、京都の摂関家から迎えた幼い子供。
(いちおう頼朝の縁戚ではある。)
承久の乱のはじめ、後鳥羽上皇は
「逆賊である
北条義時を討て!」
という命令を、全国の武士に対して下したのですよね。
北条義時は、政子の弟。
執権として、幕府の実質的な最高責任者を務めていました。
それまで武士たちは、そりゃたくさん戦争をしてきたけど、常に “大義名分” がありました。
平家を討てという、以仁王の令旨(りょうじ)。
源義経を討てという、後白河法皇の院宣(いんぜん)。
要は、
「お上のご命令により出陣する」
という言い訳が常にあった。
なんでそんなのが必要かというと、やっぱり、刷り込まれた身分差ゆえでしょう。
朝廷の権威をうやまい畏れる気持ち。
朝廷の命令に反することへの後ろめたさ。
幕府ができるまで長いこと、武士は天皇家や公家に仕えてきたわけだから。
許可がないと動けない、動いてはいけない番犬だった時代が長かった。
・・・ということだと思います。
承久の乱で日本史上はじめて、武士は “天皇の軍隊との正面衝突” を体験します。
実力的には、あきらかに鎌倉サイドが有利。
だけど精神的に、彼らには大きな惧れがある。
よりによって天皇や上皇に対して、弓を引いていいのか―――という葛藤。
「
北条義時を討て」という上皇の命令に背いていいのか、という迷い。
これは革命だったわけだから、強いタブー意識があるのは当然ですよね。
そこで武士がびびって降参していたら、幕府はそこで終わっていた。
武士の、武士による、武士のための政権は、一時的な反乱で片づけられてしまったでしょう。
幕府の存亡をかけた戦い。
そこで立ち上がったのが、
北条政子です。
鎌倉武士を前に、彼女は一世一代の大演説をぶちました。
皆心を一にして奉るべし。
これ最期の詞なり。
故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、
官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。
報謝の志これ浅からんや。
而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。
名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り
三代将軍の遺跡を全うすべし。
但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。
(だいたいの意味)
みな、よく聞いてください。これが私の最期の言葉です。
故・頼朝公が幕府を開いて以来、武士の生活は劇的に向上しました。
皆が受けた恩は山より高く海より深い。
深く感謝していることと思います。
今いわれのない讒言によって、不当な勅命が発せられました。
名を惜しむ気概のある者はただちに、君側の奸を討って将軍実朝の遺志を全うしなさい。
もし後鳥羽上皇方につきたいという者がいるなら、今ここで申し出なさい。
これに御家人たちはみな感動し、動揺が鎮まった。
―――と、
歴史の本には書いてあります。
日本史上もっともすぐれたスピーチのひとつ、だと言われています。
ド迫力ですよね。
最後の一行なんか、恫喝に近い(汗)。
要は、朝廷の番犬だったころの屈辱を思い出せ、と。
その身分から武士を解放し、官位だの財産だのを持てるようになったのは誰のお陰か。
頼朝あってこそ、幕府あってこそじゃないか。
その恩を忘れるな。
昔のみじめな生活に戻りたくなければ、幕府をもり立てろ。
・・・ということですね。
巧いなあと思うのは、直接的には上皇を非難していない点。
上皇たちを騙しそそのかした悪い奴らがいるから、そいつをやっつけろって。
そういうふうに言うことで、“朝廷に弓を引く” 罪悪感を払拭しようとしてるわけです。
あんまり出来がいいので、
「(政子のオリジナルではなく)裏で糸を引いているのは義時じゃないのか」
などと言う人もいる。
そらまあ、そうかもしれません。
執権である彼の意向を抜きにして、こんな演説ができるとは思わない。
相談なり何なり、事前にあったのはたしかでしょう。
でも、それでもこれが
北条政子の言葉として、現在まで残っているのはただ事じゃない。
それだけの人物だったってことだと思います。
でしゃばり女だとか、権力欲の塊だとか。
悪口をいう人もいるけど、この時代の関東武士の女は強いよ(笑)。
雑草のようにつよく逞しいし、けっこうな平等意識もあったりする。
夫の頼朝が命をかけて創り出した幕府を、絶対につぶさせるものか。
幕府の中枢をなす実家=北条家を守るのは自分だ。
―――そんな意識で、必死だったような気がします。
●なんか
終わらないので、この辺で無理やりストップしますね(汗)。
では、また。。。