●はい、
やっぱり
暑いです。
30度。
わたしの子供のころなら、すんごく
暑い一日だ。
が、今じゃちがうよねえ。
8月で最高気温が30度なら、ちょっとラッキーな感じ。
うにゃ。
基準が変。
日本の夏はおかしい。
●京アニの
放火事件の被害者の名前が、全員公表されました。
それに関して、賛否両論のようです。
一部の被害者遺族の意向を無視して、という部分に反発するひとも多い。
わたしも、気分的にはそっち。
何が嫌って、おそらくですが、マスコミの取材。
被疑者ならともかく、被害者のさ。
プライバシーを掘り返し、故人の生活を詮索する。
周囲の人間も巻き込まれる。
強引で、不躾で、本当に容赦がない。
下劣だと思うし、不要だろうとも思う。
家族を亡くしたばかりの人たちに、取材のマイクを向ける。
配慮なき取材攻勢に、嫌悪感をおぼえる人間は多い。
週刊誌ネタ、ワイドショーのゴシップ。
そういうものには、うんざりだと。
そういう思いはあります。
だけど、ですね。
感情的には反発するんだけど、その反面でね。
報道にはたしかに、意義があるとも思うのです。
極端な話ですが、あれです。
遺族の意向を尊重して、警察が被害者が誰だか明らかにしないのが、通例になったら?
どこで、どんな事件が起きても、
「遺族が嫌がるから」
と、被害者の身元がひろく報道されない。
それがあたりまえになったら、どうなんだろう。
(マスコミがメシの種に困るとかは、そういうのはどうでもいい。)
「別に、それでも困らない」
というひともいるでしょう。
わたしも 「じゃあ、なぜ知りたいの?」 と聞かれたら・・・?
うまく回答できない気はします。
でも、殺人事件や悲惨な事故で、被害にあった人がどういう人だったのか。
どこに暮らし、何をしている人だったのか。
いっさい情報がなくなる社会・・・って、いいのだろうか。
知りたいと感じるのは、単なるゴシップ好きのババアだからなんだろうか。
んね。
「東京都港区に住む会社員Aさん(20代)」
ぐらいの報道しかなかったら、わたしたちは関心を持つだろうか。
「へえ、そうなんだ」
で終わらない?
ニュースに反応したり、情報を提供したり、共感したり憤慨したりするだろうか。
その事件を教訓にしたり、予防に腐心したり、しないんじゃないだろうか。
ほぼ、なかったこと、になるんじゃないだろうか。
もしかしたら、知ってる人かもしれないのに。
そんな気もするわけです。
(今の世の中、公表されなくても、ネットで出回るだろうとは思うけど。)
あとね。
被害者情報という意味では、あれです。
相模原のやまゆり園の事件を、忘れてはいけないとも思います。
あれも身勝手きわまる、とんでもない大量殺人事件です。
19人が殺害され、27人が負傷した。
ご存知のとおり、この件では、被害者の氏名はほとんど公開されていません。
遺族がそれを望んでいないから。
―――ここまでは、京アニの事件と同じです。
ではどうして、扱いがちがうのか。
京アニ事件の遺族の意向は無視されて、やまゆり園の遺族の意向は尊重されたのか。
いうまでもなく、そこには差別がひそんでいます。
障害者差別。
それも、障害をもつ当事者への差別ではなく(それも酷いが)、その家族に対する差別と偏見です。
この事件で亡くなった方たちの名前を公表したら、その家族が、好奇と偏見の目にさらされる。
お父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、弟や妹。
従妹だろうと、親戚だろうと。
就職や結婚その他について、あるいは単に社会生活を送るうえで。
家族が、身内に障害者がいることを理由に、不利益をこうむるかもしれない。
その懸念がリアルにあるから、警察は(マスコミは)公表を控えました。
ここに、ラインが引かれた。
そう思います。
遺族に対する、マスコミの下劣な詮索や騒々しい取材合戦への懸念。
・・・だけでは、公表を阻む理由にならない。
でも、やまゆり園の被害者に関しては、警察は公表を強行しなかった。
なんだろうなあ。
配慮は当然、という気はする。
だけど、公表しないことが、この社会に差別が存在することを肯定してる。
よね?
もやもやします。
絶対に守られなくてはならない人権と、守りきれなくてもしょうがない人権があるのか?
そこに引かれたラインは、正しいのか。
わたしには、わからない。
わかるわけないけど、無関心ではいられない。
そう感じます。
では、またね。。。